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07/11/2016

そういう事案

アメリカAP通信、AI(人工知能)による記事生成をマイナーリーグに拡大(Yahoo!:スポーツ報知)。こういう記事が出ると必ず「日本ではそうなんだ」「日本人は感情の機微に敏感だからそうはならないだろう」「いや。高度に発達した技術だからあり得るかも」→「機械が人間の仕事を奪うんだ!」「機械が人間を洗脳していくんだ」→「ああ、恐ろしいキカイはやっぱり怖い」
・・・とかそういう論調になりそうなんですが。
新聞だってテレビの報道番組だってあれほどの「私見」が入ってる現状であります。その「私見」が「公的な報道機関だから公正なはずだ」という前時代からの旧思考を引きずっている現代で・・・どこまで「公正」いや「客観的」になれるか、と言えば・・・どうなんだろう、と。

結果や経過だけでいいなら別にキカイでも構わん、と思う人は多いのではないかと。
ただ、やはりそこには書く人の「色」が出てしまうわけで、その辺も含めての・・・という人にとっては↑こういうキカイの書く文章は受け入れられないわけです(あるいはそもそもキカイの書く文章なんか認めん、という人も)。しかし逆に「余計なうんたらはどうでもいいから結果とかその辺だけでいいよ」てな人にとってはありがたい話なわけです。
・・・ここで「そんなこと思う奴はニワカだ」的な発想もあるかも知れませんが・・・それはそれで個人的には分からんでもないんですが・・・過去の事例からすればなあ、と。今様の自由な楽しみ方でいいじゃないか、と。

少しスポーツからは外れますが。昭和の時代に二人の落語家がおりました。柳家小さん(五代目)と古今亭志ん朝。片や滑稽噺(おかしみのある話)の名手で片や人情噺(しんみりと聞かせる話)の名手で甲乙つけ難い名人だったのですが・・・「小さんが好き」と言うとこう言われたそうな。
「通は志ん朝だよ。小さんはいけねえな」
・・・好きにツウも何もないもんなんですが。そういうもん、だったそうであります(自分は五代目小さんの大ファンなんですが・・・当時のツウには何と言われるのやら)。

・・・そういう方面になっていきそうな気もするんですが、こういう「キカイの書いた文」というのは。客観的に徹するならこっち方面もアリかと思われます。でも心情的に「文責:キカイ」が受け入れられない人たちもいそうで・・・まあ、時間が経てば変わってくるかも知れないんですが・・・こういう事案は。

02:08 AM | 固定リンク