« あったかいorあったかくない | トップページ | 二つほど 4/3 »
04/02/2012
それもこれも「花見」
「今の花見は花見ではない」…「花見」改革に乗り出す京の匠たち(iza!)。まあ…何と言いますか。誰がそんなかたっくるしい花見すんねん、とか、そんなんにかけるほどのお金なんかないわいな、とか、まあ、そういうツッコミもあると思うのですが…。
花を、桜を愛でたい、というのなら別にそこまでしなくたっていいんじゃないのかなあ、とかそんなソボクなことも思ったりするのですが。わざわざ会場に畳(畳表だけかも知れませんが)やそれ専用に加工してある食器を持ち込む。果てはLEDですか。
…夜桜を愛でたいのなら余計な光はジャマなはず。青黒い夜空に映える薄桃や紅や純白の桜色。星空のもとで…というのが無理ならば現代の星空「商用照明」を利用すればいいのでは。こないだの輪番停電の時に思ったのですけれど実際に「闇夜」というのはヒトが住んでる限りまずのないのでは、と。かすかな月光や星明りでも結構な明るさになります。ならば、タダで光ってるそういった照明をムダにすることはありますまい。そういうのは一種の間接照明になると思うのですが。
紙コップや紙食器をわざわざウルシ加工。…技術のあることは分かりますが、ソレ、結局捨てるわけでしょうに。「そういう風に使う技術もアリだ」というのなら別に異論はないですけど。…そういう加工、ウルシはそもそも使い捨てでいい技術なんですかね。なんか…哀しい。
畳だってンな湿ったとこ敷いたら一回で終わりですがな。…運ぶ労力は? 一枚一枚自分たちで運んで場所取りまでしたんですかね。
言っちゃなんですが。「これが和の心だ」とか言うのなら…もっと柔軟性を持ったらどうでしょうか。
個人的に桜は好きな植物ではなかったりするせいもありますけど。どうにも人工的なとこが強い、と言うか名が知られ過ぎてるのが好かないと言うか(基本アマノジャクですから…)そういうのもあるですけれど、「春だ花見だソメイヨシノだ」と騒ぐのが嫌い、というのもあります。春は桜だけじゃない。
自分にとって春は「芽吹き」であります。これまで動いてなかった色々なものがどんどん動き始めていく。その象徴はいくらでもある。もちろん植物に限らず…動物、ヒト、世の中。
本当の「花見」というのはたしかに桜はお飾りでドンチャン騒ぎ、というのではないのでしょう。そしてそういう「花見」に異論を唱えてそういう風流をなさる方々もおられる。それはそれで…アリかと。楽しむ方法なんて人それぞれですから。古流とは違う、と憤る方がおられるのアリかと。
でも…。
結局はみんな同じなわけです。花を見ながら楽しみたい、と。ただ…それが最近はたしかに「騒ぐ」だけで「愛でてない」と。でもそこへ「愛でろ!」とまた定規持ち出すのもどうかな、と。
そういうのがホントの意味での野暮の極みなんではないのかな、とアマノジャクは思ってしまうわけです。
04:34 AM | 固定リンク