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06/13/2011
一律ではなく
たしかに教師それぞれの方法があってもいいんでは、とは思うのですが。
灘中伝説の授業「銀の匙」復活(iza!)。話としてはどこかで聞いたような気がしていたのですが、まさかこういう「伝説」だったとは…正直なところ、こういう授業なら受けてみたかったと思います。現代のように広く浅くではなく深く一点集中で教える授業。…まあ、詰め込みだ、とか言われてた自分らの世代でもなかなか「広く」「浅く」とはいかなかったもんですが。歴史の授業なんて大抵江戸時代に辿り着いて終わり、とかそんなもんでしたし。
たしかに現在は教育指導要領みたいなものがきちっと整備されていて、それに沿った授業内容が求められます。多少の改変?は許されるのでしょうけど、一つの教材だけで授業、というのは難しいのではないのでしょうか。…ただ、こういうのはどこの時代でも言われてきていたことであります。英語の授業でビートルズを教材にするとかそういうのは今でもありそうですし。教師側の独断?でそういうことはある程度はできそうなんですが…。
こう言っちゃなんですが。「質の均一化」が問題なんではないか、と。
決して人間の価値をそれだけで推し量ろう、というつもりはないのですが例えば教科書は全国同じものの方が授業内容を均一化しやすくなります。そして内容もなるべく同じにできればさらに「均一化」が進みます。
しかし教師も生徒も教官も学生も児童も人間なわけで。全く同じように「均一化」というのは不可能であります。教える側も教わる側も違いが出るのは当然であります。
それでもある程度は「均一化」しよう、と。そうでないと教わる側にバラつきが出てしまいます。そうなると入試なんかでは不利になることもある。ま、そういう試験が全部、というわけえはないのでしょうけど…大きな要因としては考えられます。
…そんな授業、面白いわけがない。上の言うことに従ってるだけなら教材を映像に収録してそれを流せばいい…という極論もありますが…。
あるいは。仮に↑のような個性的な授業が許可されたとして。果たして全ての教師が橋本先生のように実のある授業をできるものでしょうか…? 「銀の匙」の場合、くっついてくるサイドストーリーが非常に多彩なわけです。それらをきちんと精査して教える側が付け焼刃ではない知識を備えていないといけない。年期を重ねたベテランならともかく、まだ経験の浅いルーキーがそういうことまでできるもんでしょうか…?
子供だと侮ってちゃいけません。思考の純度が大人よりも濃くて集中できる分、彼らはどんなささいな穴も発見します。教える側は教える側でそれなりの覚悟と姿勢が必要になるのです…。
ま、なんかそういう話でもないのかも知れませんが。ただ、「もっと自由な授業を!」とかそういう話はよく聞きますが、成功した事例と言うのはあんまし聞かないなあ…と。そんなことを思ってた時に↑記事を読んだもので…。
04:14 PM | 固定リンク