05/16/2011
閉じてしまう?
見方は色々だと思うのですが。十人、いや百人、あるいは千人もいればそれぞれ「見方」てのは変わってくるもんではないか、と。
なぜ「両親」が登場しないアニメ作品があふれるのか(Anigema:Livedoor)。…「なぜ?」と問われたら真っ先に思いつくのが「別に必要ないからじゃない?」であります(スヌーピーが出てくる「peanuts」でも両親はほとんど…足とセリフだけ?しか出てきません)。ちなみに「けいおん!」原作では両親は最終回近く、大学受験の朝に登場してたりします。「ラブラブ夫婦」ということで旅行ばっかりしている、という設定なのですが…こう言っちゃ何ですが別にいてもいなくても関係ないような気がします。
逆に原作になかった設定と言うと律ちゃんの弟とか。あるいは父親のぱんつを洗濯する娘、という話もあったりして。原作は4コマですからそういったある意味「不要」な設定は排除していたのではないか…と思うのですが。
そして…「敵」ですか。自分が思うに一番簡単(というと語弊ありますけど…ま、あえて)に視聴者を引き込むには「バトル」と「恋愛」が手っ取り早いんではないか、と。例えばちょいと分野が違いますが、初音ミクなどボーカロイドの曲が某動画サイトで有名になり始めた頃、こんなコメントがありました。
「恋愛曲ばっかだな」
「桜舞いすぎ」「瞳閉じすぎ」ではありませんが、そういう曲がやはり耳に残りやすいと言うか興味引きやすいと言うか。こういうのは普通の曲でも言えることかも知れませんけども。恋愛絡みの楽曲というのはいつもランク上位にいたりします。演歌でも最近の曲でも。
そして「バトル」…勧善懲悪とまでは言いませんが。何か「敵」を作っておくと話し運びがスピーディになりますし、何よりはっきり分けた方が分かりやすいものではあります。…ただ…これ、非常に単純なものなだけにすぐに飽きます。そしてより迫力のあるバトルが欲しくなってくるものであります。するとエスカレートが始まり、「力のインフレ」が起きたりします。まあ、逆に言えばそこまでいける、ということは多数の視聴者が「もっと」と言ってるわけであり…幸せなことかと思われます。大抵の場合は少しの「もっと」にも応えられずに消えていったりしますし。
…この間お亡くなりになった東映の岡田茂名誉会長…「網走番外地」や「緋牡丹博徒」などの映画をプロデュースした名プロデューサーはこんな言葉を残しています。
「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」
→岡田茂(Wikipedia)
これは敵を定めたり恋愛物に通じているようにも見えますが…実際はもっと根底に流れるべきものだと思うのです。悲恋になって泣く、恋愛や悲願がかなって笑う、敵と戦って手に汗握る、とかそういうものだけではなく。もっと別の要因で泣いても笑ってもにぎってもいい。そういうことだと思うのです。
「人の一生をつぶさに監察すればそれだけでエンターテイメントになる」
そういう言葉を…どっかで聞いたか読んだと思うのですが…誰の言葉だったか…?
これは「素材」のお話なわけです。この時点では「バトル」も「恋愛」も「日常」も全部一緒。それをどう料理するか? で話は全部違ってくるわけです。料理人同様、ウマイもヘタもあり。得意分野も全然違うし味も違う。しかし当たり前ですが料理する以上、誰かが味あわないといけない。…味、というのは各個人によって違うわけです。ある人にとってはとびきり美味い絶品料理でも別の人にとっては二度と味わいたくないクソ不味い料理だったりする。
100%の人が「美味い!」なんて料理は存在しません。どんな名作にもアンチはいます(アンチが多い方が名作だ、という話もあったりしますが…)。
そして一番やっちゃいけない、と個人的に思っているのが「なんでこれが不味いの? 美味いじゃない? あんた舌がおかしいよ!」です。…見方は色々あって当たり前だ、というのを理解できない時点で周囲に存在していた「可能性」をずばっと切り落として自分だけの狭い世界に閉じこもっちまう。
…なんてつまんない生き方なんだろう、と。…まあ、これはアニメやエンタテイメントを楽しむことだけに限ったもんではありませんけども…もっと色んなもん感じたりしてみたらいいのに、と。なんでそこで閉じちまうかな、てのはどこでも思うことなんですが。
03:06 AM | 固定リンク