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06/29/2010

「劇」と「実」

「時代劇」と「史実」の区別もつかないのかな…と色んな意味でかわいそうになってきしました。
歴史ドラマのウソとホント(iza!)。そりゃあ…史実を調べ上げるには相当の「力」が必要であります。かの司馬遼太郎氏は一作品書き上げるのにトラック一台分の資料を必要としたとか。それ故にあれだけの臨場感あふれる作品を世に送り出してきたわけですが…そこまでの財力も時間もないのが一般的な創作家ではあります(もちろん他に本業があっても時間を作って偉大な功績を収めた方も多数いらっしゃいますが)。
分かりやすく作って何がイカンのかな…別に歴史の授業やってるわけでもねーのに。

…まあ、江ノ口信天の私見ではございます。別に↑記事に異論と言うか「はあ? 何言ってんの? ンなくだんねーこと言うなや」とかそういう異見を述べたいわけでもないんですが。
時代劇てのは西洋のファンタジーみたいなもんではないかと。物語に妖精やら天使やら出てきても史実を持ち出したりはしますまい(ちょっと強引かな)。さらに進めていくと。アメリカにおける西部劇=日本の時代劇というのもアリなんではないかと思えるわけです。

例えば。遠山の金さんや大岡越前にあるようなお白州の「階段」、これは実はこんなもんなかったらしく、さらに江戸期の調べ物てのはああいう風に芝居がかるもんではなく…武士がいるなら縁側に、それ以下ならお白州に、とかっきり分かれていて…粛々と進んでいったもののようで。階段で「おうおうおう!」なんてのはもちろんなく。その遠山の金さんにしても実際は評価がヒジョーに分かれる人物だったりします。
でも。なんでそんな「階段」とか「金さん」とか注目されるのか…?
そりゃ、その方が面白いからです。やはり個人的な考えですけど、宮本武蔵なんかいい例だと思われます。江戸期の講釈師が色々付け加えていったから今日の「武蔵像」があるわけで。恐らく江戸の初期頃には誰も知らなかったんじゃないか…と思ってます。同様に坂本龍馬も。子母沢寛「勝海舟」に龍馬が出てきますけど、今ほど大きく扱われていません(とは言ってもそんなに昔の書ではないんですが)。でも大きく扱われた方が面白いから今日のような「龍馬像」になってきてるわけです。

ちょんまげの自作とか、その辺は個人的に面白いと思うのですけれど(あんな大きなマゲ結ってるわけないです、日常的に)「言葉」がどうにもおかしい、てのはなあ…立証しようがない問題でもあります。いくら文語と口語で違いがあるったって「こうだ!」と当時の人たちが確実に話をしていた言葉、なんてのは調べようがありません。
なおかつ当時の甲州弁…無理でしょ、そんなん。
今の時代、何をどう作っても「時代劇」にしかならんのです。それは拳銃の抜き打ちをするアメリカの西部劇と一緒であります。馬に乗って牛を誘導して列車に乗せる「カウボーイ」が存在したのはわずか30年程度と言われています。さらに、西部劇でよくある「銃による決闘」のシーン。リボルバーが普及するのよりちょいと前の話で、一説には保安官は副保安官を常に連れていたとか。何をするか、って言うと…元込め一発きりなんで予備の銃を持って歩いてたらしいです。さらにさらに。一発きりですから当たることもまずなかった、とかそんな話まで…。

結局のところあの頃そんな言葉なかった、あるはずねえ、とか重箱のスミつついて喜ぶよりも、その時代の雰囲気を楽しめればいいのでは、と。所詮無理なんですし。今の世でタイムマシンでもない限り(本当にできたら色んな意味で世の中変わりますけど)「真実の姿」なんてのは絶対確認できないんすから。
…今の歴史的資料だってもしかしたら間違ってる可能性だってあるんですし。
想像力しか実現できない世界なんですよ、過去てのは。どんな有力な証拠が出たって簡単にひっくり返っちまう。そんな可能性があるのに「これこれでないとおかしい」「あんなこと言うのは変だ」てのもなあ、と。正解なんかどこにないってのに。

所詮は「劇」なんですよ、「実」がどこにあるのか分からんのですよ、と。ま、そういうことなんですが…拙作「鋭鬼」もなあ…かなーりヤバい橋渡ってますからねえ…一応、作者としてはある程度ソレっぽい「実」は求めているつもりなんですが…やっぱり「劇」ですね。その方が気楽…って言うと語弊招きそうですが…アレは「時代劇」という「史実」ではなく娯楽のつもりで書いてはいるんですが、ねえ…。

08:39 AM | 固定リンク