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09/05/2009
そういうもんなんじゃ?
正しい日本語をきちんと使うよりも意思疎通のためなら誤用も辞さない「現代人気質」(iza!)…ってほどでもありませんか。つまりは本来の意味があるのだけれどそれだと相手に伝わらない可能性があるので、あえて違う意味で使う、そういう気質が現代人にあるのでは…ということなんだと思いますが。
いや、言葉なんてのはどんどん変わっていくもんでしょうに。昔なら皆が皆きちっと意味を守って使っていたのに今の人は気分で変えるから困る…みたいな言い方されてもなあ、と。江戸期辺りからでも今と違う言葉の使い方してるケースなんてのは探せばたくさんありますし、状況的には今とそんなに違ってなかったんではないかと。
…まあ、こういうもんじゃないのかな、とか思いますが言葉なんてのは。
ただ、明らかに行き過ぎた乱用…というのはさすがにどうか、と。漢字の間違いなんかもそうなんですが場合によっては意味が真逆になってしまったりして。そうなると意思の疎通に若干の「害」が出てくる…というのはたしかにアリではあります(そういうのも全部引っくるめての「変化」だ、という見方もありますが)。
そういうとこも「空気読んで」の言葉の変化なのかも知れませんが…さて。
いちいち全部昔の通り変化しない「きれいな日本語」だけ使え、というのも息が詰まりますし。かと言ってどうせどんどん変わって行くのだから「変わる日本語」だけにした方がいいんじゃね? てのもなんか違うような。昔の言葉も残しつつ今の言葉も取り入れていく…というのが理想なんではないか、と。まあ、ホントに「理想」ですが。しかし現実としてはお互いがお互いを受け入れなくても勝手に融合して勝手に次世代に伝わって行ったりしますんで、言葉というのは面白いもんであります。
かつて日本では「書き言葉(文語)」と「話し言葉(口語)」は別モノでした。そんなに昔の話じゃありません。江戸期はもちろん、明治大正昭和辺りまで素養の一つとして文語は残っていましたし、一般の人でも手紙は文語で話す時は口語で、なんて場合もよくあったんだとか。その文語は「候文」とか呼ばれることもあって、語尾に「候(そうろう)」と付けたりしてました(もちろんこれだけじゃないですが)。実際に話す口語では「なんとかでそうろう」なんて話し方はしてなかったわけです。
いわゆる「言文一致」という動きはすでに明治の頃からあったんですが。江戸期だってなかったわけじゃないんですが…それ以前からそういう形でしたし。なかなか変わらなかったんじゃないのかな…と。さらにそれ以前になると「かな」は女性が「漢字」は男性が、という風な区切りがあったりもします。
…まあ、そんなにかっちりやる必要もないんでないの? とか個人的には思ってますが…それでも一部の変化には「?」とか思ってる自分もいますんで、その辺は、まあ…変化した先は自分では確かめようもないんで、後世の人がどう使っていくか次第になっちまうような。今がたがたやっても仕方ねえよ、とか思ってしまうのですが。
04:59 AM | 固定リンク